美濃焼の特徴
・個性豊かな様式の色と肌
・世界に類を見ない大胆な造形
・茶陶の形式を越えた自由な精神
色合いを生むたくみな技術
美濃焼は志野・織部・黄瀬戸・瀬戸黒の4種類が有名で、これらはどれも釉薬による色彩表現が豊かなことでも人気があります。
【志野(しの)】
志野の練乳のようなやわらかい白は、長石釉を器にたっぷりとかけることで生み出されます。焼成中に素地から自然とにじみ出て、薄紅の火色が現れることもあります。日本で初めて絵付けが実現されたのも志野です。
【織部(おりべ)】
織部には多彩な釉薬が使われており、もっとも「織部らしい」とされているのは、銅緑釉(織部釉)のあざやかな緑です。織部焼の魅力でもある深い水底のような緑色は、銅緑釉が器の底に溜まってできたものです。陶土の違いによって、織部は焼き上がりがやや重く、志野は軽くなります。
【黄瀬戸(きせと)】
黄瀬戸には灰釉のひとつ、黄褐色釉(黄瀬戸釉)が使用され、作品によってやさしいパステルカラーのような黄色から、おだやかな茶色やきつね色に近い黄色まで、同じ黄色でもさまざまなバリエーションがあります。胆礬(たんぱん)と呼ばれる緑色の斑と、線彫りで描かれる模様が巧みな強弱を生み出す意匠です。
【瀬戸黒(せとぐろ)】
瀬戸黒の作成方法は大変劇的。高温焼成中の器を頃合いを見計らって炎の中から取り出します。灼熱の窯の中で溶けていた鉄釉(てつゆう)が、外気で急激に冷やされると漆黒に発色します。瀬戸黒の黒色は、やさしい黄瀬戸とは対照的な印象を与えます。
古田織部が好みの大胆で自由な形
美濃のやきものには、無造作に曲がった形や崩れたような形のものが見られます。器の「ゆがみ」「ひしゃげ」に美を見出す感覚は中国などの海外のやきものにはなく、日本特有のものです。美濃焼の中でその特徴を最も顕著に表現しているのは「織部」です。
戦国武将で知られる古田織部は茶匠としての顔も持っていますが、彼は創意工夫によって器に動的な造形を加えました。このような造形の影響を受け、美濃の陶工と戦乱を避けて瀬戸から流れてきた陶工らによって、それまでにない斬新なスタイルの茶陶がつくられるようになりました。
このように生み出された新しいやきものが「織部」で、絵柄も形も「織部好み」と呼ばれる共通の特徴があります。形式に捕らわれない自由な文様、「誰が袖(たがそで)」「入隅(いりすみ)」と呼ばれる抽象的なデザインの器、三日月や魚、鳥などの形の器など、桃山時代のものの他、現在の陶工たちによって再現された織部好みの器も躍動感にあふれ、遊び心を感じさせるおもむきです。
美濃焼の歴史
●古墳時代
須恵器がつくられ始める
●平安時代
灰釉陶器や無釉の山茶碗などが焼かれた。
租税の代わりに陶器をおさめる「陶器調貢国」になる
●鎌倉時代
黄瀬戸の原型がつくられ始める
●室町時代
瀬戸の陶工が流入してくる
●桃山時代
美濃桃山陶が焼かれ茶陶の一大産地となる
●江戸時代初期
青磁器風の陶器「御深井」が焼かれはじめる
●江戸時代中期
日用雑器の製作が中心になる
●江戸時代末期
磁器の生産が始まる
●昭和時代初期
茶陶の生産が再び盛んになる
●現在
日本の和食器・洋食器の大半を生産する大窯業地となる
日本のやきものに新しい風をもたらした桃山文化
現在の美濃は日本の陶磁器の大半を生産する大窯業地となっています。戦乱の世の終わりに向かいつつあった桃山時代には、さまざまな伝統や文化、流行をとり入れて、日本の新しい文化が生まれましたが、茶陶の世界にも革命的な変化が起こり、その中心にあったのが美濃です。現在でも多くの人が「美濃焼」と言えば「美濃桃山陶」と呼ばれる桃山時代の茶陶をイメージします。
桃山時代まで日本でつくられてきたやきものは主に、中国の陶器に似せたものや、常滑焼、備前焼のように釉薬をかけない焼締めのものでした。桃山時代の美濃に続々と誕生した陶器は、これらの陶器とは全く違うものでした。
ふくよかで白い肌の志野、自由に歪まされた織部など、日本のやきものに、初めて色彩や変形といった要素が加えられました。それらの茶陶は大きく揺れていた桃山時代の文化を象徴するものでもありました。
美濃桃山陶は江戸時代に入ると衰退していきましたが、昭和の人間国宝である荒川豊蔵・加藤卓男・鈴木蔵らの手によって再現されました。
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