常滑焼(とこなめやき)愛知

常滑焼の特徴

・安価、丈夫、量産できる製法の日用品
・野性美
・独特の赤!朱泥急須


良質な土で生活の器を焼き続ける 六古窯最古の窯

常滑焼は中世のやきものの中では最大の生産量を誇ります。海上交通の主要ルートでもあった愛知県知多半島一帯には古窯の跡が多数残されており、その数は分かっているだけでも500基を超えています。一般庶民のために値段の安いものを大量生産することに重点をおいた結果、野性味あふれる個性的な器が続々と誕生しました。

常滑の土は鉄分が多く粒が細かいという特徴があり、低温でも賢く焼締まるため、大型の甕(かめ)や壺を作るのに適しています。

できるだけ手間を省いた製法となるように工夫され、一部を除いてろくろも釉薬もほとんど使われませんでした。口と土台の部分だけをろくろでつくり、胴部は粘土ひもを巻き上げるという成形。これは、縄文や弥生土器の作り方ですが、どっしりと厚手で丈夫なやきものが出来上がります。さらに常滑焼は釉薬をかけず、穴窯で10日以上じっくり焼成しますが、その間に大変多くの灰が降りかかります。それらが器面の長石と溶け合ってできる自然釉が、力強い表情を見せ、野性的な印象に仕上がるのです。

主に一般人向けの日用品を作り続けた常滑焼は、茶陶などの名品はつくられませんでしたが、日本各地のやきものに大きな影響を与えました。信楽、丹波、越前と、現在「六古窯」といわれている窯の半分は、常滑焼がルーツとなっています。


朱泥・藻がけ・新時代の開発

「朱泥焼」と言えば、今日の常滑焼のシンボルともいえる代表作です。

朱泥焼き締めの急須の誕生は、明治11年(1878年)、杉江寿門(すぎえじゅもん)が中国の金士恒(きんしこう:文人)から製法を学んだことが始まりです。堅く焼締まった暗赤色に独特の光沢があり、使い込むほどにつやが出る朱泥の土でつくられた急須は、現在でも日本の多くの人に、さらには海外でも愛用されています。

この朱泥急須をはじめ多様な製品を作り、今では一大窯業地となった常滑焼ですが、過去には不遇の時代がありました。

天正2年(1574年)、織田信長が瀬戸以外に窯を築くことを禁じる「禁窯令(きんようれい)」を出しました。復活するのは江戸時代の末期になってからです。赤井陶然、伊奈長三などの陶工が登場し、新しい作風が生まれるようになりました。

二代目伊奈長三は、初代が開発した「藻がけ」技法を完成させます。赤土に白い化粧土をほどこし、その名の通り、藻(海藻)を巻きつけて焼くと、備前焼の火襷(ひだすき)と同じように窯変(ようへん)を作り出します。白泥(はくでい)に火色の赤が美しく映え、独特の柄を映し出します。

明治期から大正期にかけて、常滑焼は、土管やタイルなどの産業用陶器の大量生産が中心となりました。昭和36年(1961年)には常滑市立陶芸研究所が設立され、数々の陶芸家が排出されるようになりました。

彼らの活躍によって現在は生活スタイルに合ったモダンデザインの食器類も登場し、常滑焼はさらに新しい意匠を生み出しています。

やきものの紹介

日本全国の代表的なやきもの、海外のやきものを紹介します。

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