瀬戸焼の特徴
・中世から施釉陶器を製作してきた伝統
・独特のうるおい
・親しみやすい模様の手ごろな磁器
中世高級陶器を伝える本業焼
瀬戸焼は、瀬戸の陶祖・藤四郎(加藤四郎左衛門景正(かとうしろうざえもんかげまさ))が始めたと言われていますが、実は猿投用(さなげよう)から分かれてできた、東山窯にルーツがあります。
鎌倉時代には瀬戸で中国の陶磁器を手本にした施釉陶器が焼かれるようになりました。当時、日本では、本格的な施釉陶器を焼く窯が他になく、瀬戸のやきものは輸入品に次ぐ高級品として扱われていました。このころの瀬戸焼を一般的に古瀬戸(こせと)といい、「自然釉から生まれた淡い黄緑色の灰釉」そして「鎌倉時代後期に生まれた濃い褐色の鉄釉」といった二種類の釉薬が主に使われていました。
鉄釉のなかでも赤みを含んだ天目釉は「古瀬戸釉(こぜとゆう)」と呼ばれています。
14世紀前半に全盛期を迎えた瀬戸の施釉陶器は、釉薬の下の器面に草花、動物、幾何学模様など、さまざまな文様で装飾されています。型を作品に押して模様をつける「印花(いんか)」や、粘土を貼り付ける「貼花(ちょうか)」の技法が使われていました。
戦国時代には窯場一帯も戦場になり、陶工の大部分が美濃に逃げ(瀬戸山離散)、美濃焼を誕生させましたが、江戸初期には尾張藩が陶工を呼び戻し、現在、瀬戸市内の赤津地区で焼かれている赤津焼はそういった歴史の流れが感じられます。
江戸後期に磁器が焼かれるようになると、陶器を「本業焼」、磁器を「新製焼」と呼び分け、主流は磁器に移行しました。しかし、明治から大正時代にかけて流行した洋風建築では、陶器タイル「本業タイル」が多数使用され、再び盛んに生産さるようになりました。
新製焼(磁器)の成功により一大産業へ発展
江戸時代後期、瀬戸の陶器は九州の有田などの磁器に押されていました。そこへ、九州で磁器の製法や染付の技術を学んだ加藤民吉(かとうたみきち)が帰郷し、瀬戸で広めるようになったことで、瀬戸焼の磁器「新製焼」が誕生したのです。
その後、絵師の指導を受けた絵付けの技は、呉須(ごす)の藍色で花や鳥、昆虫、風景などを細かく描く独自の染付技法が生まれ、さらに、最高温度を一定時間保つ焼成方法なども開発され、絵にうるおいを与えることに成功しました。
民吉は瀬戸の磁器生産を産業として成功させたのです。一般の人が買える値段の日用の器を大量生産し、「特徴のないのが特徴」「何でもありの瀬戸焼」といわれるほど、瀬戸焼は一般大衆に広がりました。
今では陶器、磁器は「せともの」と呼ばれ、あらゆるニーズに応えるやきものの代名詞になっています。
ぬくもりをかんじさせる民芸調の陶器
「本業焼の伝統と陶器がもつ渋みを生かしつつ、赤津焼のように高価でないもの」
が求められた時代に生まれた一つの流行があります。
瀬戸の民芸調陶器のあたたかみのある釉薬の発色と、シンプルで親しみやすいデザインがまさにそれです。透明な黄色の釉がぬくもりを感じさせる「石皿」、自由に同心円を連ねた「馬の目皿」、縦縞の「麦藁手」などが代表的な製品です。
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