万古焼の特徴
・時代ごとにデザインと名が次々と変化
・白土の枯渇による紫泥急須の誕生
・貧しい村を救ったやきもの産業
万古焼は時代ごとにそのデザインを様々に変えてきましたが、時代が進んでも「新しいやきものをつくりたい」という精神は変わらずあり続けています。現在でも全国の土鍋生産量の約80%を占め、日用陶器などを常に新しいものへと進化させています。
末永村は三滝川と海蔵川に挟まれたデルタ地帯で、毎年水害に悩まされていました。末永村の村役人だった忠左衛門は、そんな村人たちの窮状を見て、資材を投げうち、二十年に及ぶ研究の末、1870年に開窯を成功させました。忠左衛門は製法を公開し、陶工をを育て、今日の万古焼の基礎を築いたのです。
古万古(こばんこ)
元文年間(1736~1741年:江戸時代)に現在の三重県朝日町小向で桑名の豪商にして茶人であった沼波弄山(ぬなみろうざん)が窯を開いたことが万古焼の始まりです。弄山の作品は異国の情緒があり、更紗(さらさ:人物や花鳥、動物などが鮮やかに描かれたインドの布)文様を基本として、ライオンやラクダ、像などの珍獣が描かれています。
後世に伝わることを祈願して「万古不易(ばんこふえき)」の銘印が器に押されたことから、「万古焼」と呼ばれました。弄山のつくった万古焼を現在では「古万古」と呼んでいます。
有節万古(ゆうせつばんこ)
弄山が亡くなってから、万古焼は一度途絶えますが、江戸時代後期になってから森有節(もりゆうせつ)と千秋(せんしゅう)の兄弟が復興させました。彼らの万古焼は「有節万古」と呼ばれ、その特徴は華麗で精緻なものでした。
古万古の異国風の印象は無く、尊王攘夷の時代の流れを背景に復古的な大和絵を描きました。また、「腥臙脂釉(しょうえんじゆう)」という、焼くと鮮やかなピンク色になる絵具を開発したり、提灯をつくる木枠をヒントに編み出した木型での成形により、薄手で精巧な急須を量産するなど、斬新なやきものを多数作り出しました。
四日市万古(よっかいちばんこ)
山中忠左衛門(やまなかちゅうざえもん)らが始めた「四日市万古」は、現在の万古焼の基盤となっています。四日市の東阿倉川(ひがしあくらがわ)に、信楽焼の陶工が窯を開いていましたが、忠左衛門が有節万古の技術を組み入れ、1870年(明治3年)に窯を開いて一大産業となりました。海外へ輸出するために、ユニークなデザインの製品が多くつくられました。
古万古
紫泥急須(しでいきゅうす)
万古焼と言えば、無釉で焼締める紫泥急須を例に挙げる人が多いですが、紫泥のやきものの歴史はそれほど長くはなく、明治時代中期頃から始まります。
古万古より、色絵の陶器を製作していた万古焼が釉薬をかけない焼き物を作るようになったきっかけは、万古焼の白土の枯渇によるものと言われています。四日市万古の時代、万古焼は大量に生産され、海外にも輸出されていました。そのため明治中期になると陶土産地の垂坂山(たるさかやま)の白土が激減し、万古焼は存続の危機を迎えます。
ところが垂坂山の赤土が焼締め陶に向いていることが分かり、赤土を用いた製品づくりが中心となりました。垂坂黄土(たるさかおうど)、青土(せいど)、知多黄土(ちたおうど)などに木節粘土を混ぜ合わせて高温で焼くと、黒紫色の独特の肌質に変化します。これが「紫泥(しでい)」と呼ばれるようになりました。
現在万古焼は、紫泥急須の他、施釉の陶器も作られ、窯元も四日市から周辺の桑名市、菰野町(こものちょう)、朝日町などに広がり、140軒余りの窯が活躍しています。
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