会津本郷焼の特徴
・厚手で力強く飾り気のない器
・飴釉の光沢が見るたびに表情を変える
・重厚な陶器と細密な磁器の両方を楽しめる
陶器も磁器も楽しめる会津本郷焼の器は素朴ではあるものの、北方の寒い冬でも料理を温かく保つ厚手で力強い印象を与えるものが多くつくられています。
会津本郷焼に使用される陶土や陶石には珪酸分(ガラス質)が多く含まれており、これらは焼成によって溶けやすい性質を持っています。器を薄く作ってしまうと、窯の中で変形しやすいため、昔から重厚でずっしりとした安定感のあるつくりの器が多くつくられてきました。
現在は陶土の改良も可能ですが、冬は氷点下十度以下にもなるこの地では、料理や燗酒(かんざけ)を冷めにくくし、手に熱を伝えない厚さの器は需要があり、現在でも重厚感のある器がつくり続けられています。
寒冷地の人々の生活に役立ってきた会津本郷焼。中でも、ニシン鉢が有名です。会津本郷では昔から日常的に使われてきた器で、秋に仕入れたニシンを三杯酢と山椒と共に漬け込みます。
器の素地に目に見えない小さな隙間が無数に空いていて通気性がよく、食料の保存に最適な器です。
寒い国はやきものづくりに向かないと言われていますが、地方の暮らしに適した必要なものだけをつくってきた会津本郷焼の器には、雪国ならではの工夫と力強い風格があります。
【ニシン鉢】
豪雪地帯の会津では、冬に摂るタンパク源としてニシンの山椒漬けがつくられ、その器として多くの家庭でニシン鉢が利用されてきました。
ニシン鉢は長方形をしており、百匹のニシンを曲げないで並べられるほどの大鉢です。
厚さ15mmの分厚い粘土板を5枚組み合わせ、「たたら作り」という方法で成形されます。たたら(板状の粘土)を張り合わせて叩いて素地をしめます。
現在では様々なサイズのものがつくられています。
会津本郷焼では窯元ごとに多様な釉薬(ゆうやく)が使用されています。
「飴釉(あめゆう)」は会津本郷焼で使用される代表的な釉薬で、会津若松市の八日町で採れる粘土を原料にしています。あめ色(褐色)で光沢をもっており、元々の会津本郷焼の陶器はすべて、この飴釉がほどこされていたと伝わっています。
伝統的な会津本郷焼は、成形後の器に素焼きをせず、素地に直接釉薬をほどこします。飴釉を多量にかけ、比較的低温で長時間焼くと、釉薬の中の成分が結晶化して表面に斑(ふ)が現れたり、変色して、独特の風合いが生じます。これらは見る角度や光の加減によって、キラキラ光って見えたり、違った模様が現れたりします。
現在ではこの飴釉に二酸化マンガンなどの化学物質加えて色に変化をつけたり、白釉などと組み合わせたり、多様な風合いが試され、使用する人にも楽しまれています。
会津本郷焼の陶器と磁器
伝統的な会津本郷焼の代表は飴釉がかかったニシン鉢ですが、それを受け継いでいるのは宗像窯(むなかたがま)一軒のみとなり、すべての窯元がそれぞれ独自の伝統により、個性のある製品を製作しています。大きく分けて二種類あり、ひとつは飴釉や鉄釉を豪快にかけた「陶器」。もう一つは山水画などを描いた「白色磁器」で、装飾法でも、上絵付けや赤絵、染付けなど、窯元ごとに特色が異なります。
これほど多様な製品が生まれる背景には、近郊の白鳳山で陶土も陶石も採れること、窯ができた当初から瀬戸焼、京焼、有田焼など多くの窯場の影響を受けていたことが挙げられます。また、明治時代の陶工達は全国各地の窯場に出かけて、それぞれの技法を持ち帰りました。現在も町を歩きながらいろいろな器、技法に出会えます。
会津本郷焼の歴史
会津本郷焼の始まりは東北で最も古く(1593年)、領主・蒲生氏郷が、鶴ヶ城の屋根瓦を製造させたのが起源です。当初は「しみ割れ(寒さのために割れてしまうこと)」をしない瓦作りの研究が続きました。正保年間(17世紀中頃)、藩主の保科正之(ほしなまさゆき)の希望に応じ、本格的なやきものの窯場の基礎が、瀬戸から招かれた陶工・水野源左衛門により築かれました。
さらに1800年には有田や京都で陶芸を学んだ佐藤伊兵衛が磁器の製法を伝え、今日の会津本郷焼の原型が完成しました。
→桃山時代
領主・蒲生氏郷が、鶴ヶ城の屋根瓦を焼かせる
→江戸時代初期
瀬戸の陶工・水野源左衛門が窯を開く
→江戸時代後期
佐藤伊兵衞が白色磁器の製法を伝える
→明治時代初期
戊辰戦争で一時断絶するがたちまち復興
→大正時代
大火で断絶するが復興
→現在
窯元数十七と、東北一の規模を誇る窯場に
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