益子焼の特徴
・民芸運動の流れをくみ実用性を重んじた作品
・多様な陶芸家の自由な作風
・難しい土と調和する様々な釉技
民芸運動の指導者のひとり、濱田庄司(はまだしょうじ)が益子の地に居を構えてから、益子焼の名が日本に広まりました。
大正末期、柳宗悦(やなぎむねよし)を中心に進められた民芸運動は、それまで「下手(げて)もの」と軽視されていた日用品に美的な価値を見出すもので、日本中にブームを巻き起こしました。
「自然から生みなされた健康な素朴な活々とした美を求めるなら、民藝の世界に来ねばならぬ」(日本民藝美術館設立趣意書)
やきものの分野でも益子を中心に「民衆工芸の中にこそ生活の用に即した美がある。」という理念に沿い、作陶が行われました。
濱田庄司や河井寛次郎(かわいかんじろう)らによる「民芸」のやきものは、豊かな美しさを持ち、日本、そして世界の陶芸家からも注目されて、高い評価を得ています。
ー 近代益子焼の育ての親
濱田庄司(はまだしょうじ 1894〜1978年:1955年-人間国宝)
1916年東京高等工業学校(現・東京工業大学)の窯業科を卒業した後、京都市立陶磁器試験場で河井寛次郎らと共に釉薬の研究を行いました。後に民芸運動に取り組んだ柳宗悦、バナード・リーチ(イギリス人陶芸家)と出会ったのもこのころです。
1924年にリーチと渡英し、帰国後益子に定住しました。益子焼の「山水土瓶(さんすいどびん)」を絶賛し、濱田が益子焼を選んだ理由とも言われています。
濱田は益子で民芸運動を指導し、自らも地元の陶工の協力を得て、益子が育んだ土と技法で作陶をはじめました。大鉢や壺に釉薬を豪快に流しかけた作風は、素朴な持ち味があるおもむきで、肉厚の造形美を感じさせます。
ー 益子焼 施釉の技法
●筒描き(つつがき)
細い筒状のもの(竹で作った容器など)に入れた釉薬で模様を描く
●櫛目(くしめ)
釉薬を塗り、その上から櫛状の道具で引っかいて模様をつける
●刷毛目(はけめ)
刷毛で白泥を塗りつける。ろくろを回して刷毛目模様をつける。
●流しかけ
柄杓などで釉薬を流しかける
益子焼の始まり
江戸時代末に「笠間焼の陶技」を修得した大塚啓三郎が窯を開いたのが「益子焼」の始まりです。土瓶や土鍋などで発展し、大正期の民芸運動で全国的に知られるように。
1950年代半ば以降の高度成長期の中、民芸の持つ素朴であたたかな味わいが再び注目され、日用で使用する器物の中にある「用の美(ようのび)」を大切にした濱田庄司らと同じ志を持つ陶芸家達が全国から集まりました。彼らは伝統や様式にとらわれない自由な作陶活動を行ないました。2000年現在、400件以上の窯元があり、民芸運動が収まった今日でも、益子を現代陶芸の聖地とするファンが大勢います。
益子焼は素朴な面持ちの中にモダンな風合いがあり、厚手かつ重厚でありながらも、茶碗や皿を手に物つと意外に思えるほど軽いのが特徴です。益子の土は栃木県内から採れる新福寺粘土などを基本とした粗い調子の胎土で、あまり良質とはいえません。気泡が多いために厚手に作らざるを得ず、造形も簡単ではなく、焼成後の土色が赤っぽくなってしまいます。
このような難しい土であっても、見事な作品を生み出す益子の陶芸家の技には、感銘を受けます。
益子焼の釉薬
益子焼の素朴でモダンな印象を与える要素には釉薬も一役を担っており、藁、木の灰と石を合わせるなど、濱田庄司らによって生み出された様々な釉技が基盤になっています。
ー 作品に使用されている釉薬の例
●黒釉柿流掛皿
柿釉(かきゆう)
原料ー益子特産の芦沼石
発色ーくすんだ赤色
黒釉(こくゆう)
原料ー益子特産の芦沼石
発色ー気品ある黒色
●緑釉流掛皿
糠白釉(ぬかじろゆう)
原料ーもみ殻+焼いた灰
発色ー半透明な白色
緑釉(りょくゆう)
原料ー石灰、土灰、長石ほか
発色ーくすんだ緑色
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