笠間焼の特徴
・開放的な作陶環境
・器のおもむきを演出するたくみな釉技
・どっしりしたボディを作る粘性の強い土
笠間は関東では最も古い歴史をもつ窯場ですが、現在は、伝統だけにとらわれず、新しいものも積極的に取り入れられています。
笠間焼の糠白釉(ぬかじろゆう)や柿赤釉(かきあかゆう)を使い、登り窯での昔ながらの焼成を行っている作家や、日常食卓で使える食器を精力的に制作している作家、実用的なモダンクラフトを生み出している作家など、現在の笠間焼は多様なものが見られます。
また、アートとして楽しめるデザイン性を重視したオブジェ作家も活躍しており、「特徴のないのが特徴」といわれてきた笠間焼も、2000年現在では200軒以上の窯元が、自由で活気あふれる環境の中でそれぞれに趣向をこらした作品を製作しています。
隣の栃木県の益子では民芸運動の精神を慕う作家が集まり技法や意匠を育ててきましたが、笠間の作陶環境は県や市などの自治体が支援して育んできました。
1950年、茨城県笠間に設立された窯業指導所は、土や釉薬の改良、重油窯の導入や技術者の養成など窯業全体の革新と育成に力を入れました。
さらに昭和38年(1963年)には市が陶芸団地を建設し、全国からそして世界からも陶芸家を広く招き入れました。
これにより独創的な作風を打ち立てる多くの作家が育ち、彼らの作品は「ニュー笠間山」とも呼ばれ、笠間のやきものをバラエティ豊かなものにしました。
笠間焼の歴史
笠間焼は、安永年間(1772~1781年)に箱田村が凶作に苦しんだことから、名主・久野半右衛門が新しい産業を興すために、信楽の陶工・長右衛門の指導を受けて窯を開いたのが始まりです。
当初は失敗の連続で、半右衛門の死後、二代目のときにようやく施釉陶器の焼成に成功しました。この窯は「久野陶園」という名で現在も残っており、十三代目・久野半右衛門が守っています。
寛政年間(1789~1801年)には、やきものを好んだ藩主・牧野貞喜の奨励もあり、窯元が急速に増加しました。笠間周辺の丘陵地は陶土や薪が豊富で、やきものづくりに最適な環境であったことも影響しています。
明治以降、商人の田中友三郎が笠間焼の販路拡大に努め、全国で「笠間焼」の人気が多感りました。すり鉢、土瓶、火鉢など、日用品としての器を制作し、市場を伸ばしました。
ー 笠間焼の釉技
笠間焼に使われる釉薬・釉技は益子焼と同じものもありますが、それら以外にも多彩な釉薬・釉技が用いられます。
●黒釉に鉄赤釉を流しかける
器全体を黒釉にひたし、乾いたら鉄赤釉を流しかける。鉄赤釉のむらが朱色のまだら模様になる。
●合成白マット釉の薄がけ
窯業指導所が開発した釉薬で光沢がなく、白よりは灰色に近い柔らかい色。薄くひたしかけて焼成すると焦げ模様が付く。
●御本手(ごほんで)
器全体に化粧土を塗り、透明釉をかける。ピンホール(気泡)が破れてできた小さな穴の部分から赤褐色の器肌が透ける。
●粉引(こひき)
化粧土を塗ってある部分と塗ってないない部分を作り、透明釉をかける。塗ってある部分は白く、塗っていない部分は赤褐色になる。
ろくろによる成形技術を発展させた笠間焼
笠間焼にはどっしりとした重厚感と安定感のある器が多数あります。
笠間焼に使われる陶土は関東ローム層から採れる「笠間粘土」であり、粒子が細かく、強い粘性をもっています。焼き上りは堅くて壊れにくい器になりますが、薄く延ばして作ると、窯焚きをするときにヒビが入ってしまうため、厚手に作らざるを得ませんでした。また、粘りが強すぎる土であるため、型にはめて成形することも難しく、量産に向いていません。
そのため、笠間焼はろくろによる成形技術が発達し、多品種でありながら少量しか生産できません。
2000年現在では県の窯業指導所の研究などにより、花崗岩が風化して出来た土を笠間粘土に混ぜて使う「蛙目粘土(がいろめねんど)」が使われています。鉄分が多くて焼成に強い蛙目粘土を丹念に練り込むと、成形するときにのばしやすくなり、薄造りの製品もつくれるようになりました。その結果、笠間焼も作陶の幅が広がり、より手の込んだ繊細な作品も制作されるようになりました。
笠間焼と益子焼
笠間焼は山一つ向こうの益子焼とよく比較されます。益子焼は笠間焼の流れをくんで始まったもので、陶土も同じ八溝山地(やみぞさんち)から採られています。
近世まではより交通の便がよい益子から笠間焼を販売していたこともあり、古い時代から交流も深く、作風が似ています。
一方、笠間焼と益子焼の違いについては、益子での民芸運動が大きく影響しています。
民芸調の益子焼が戦後も民芸路線であるのに対し、笠間焼は時代に求められる作品の制作に路線を切り替えました。現在笠間では、益子ように伝統的な甕(かめ)や鉢などを焼いている窯元はありません。
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